稲葉秀久

伊東市役所建設課 山田崇チルドレン会 箕輪編集室 西野亮廣エンタメ研究所

ジモシルインタビューVol.5 上野洋臣さん(炭火割烹とも店主)

ジモシルインタビュー5@伊東市、上野洋臣(炭火割烹とも  店主)さんです!

 

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上野洋臣さんは4年前にオープンした「炭火割烹とも」を、夫婦2人で経営されています。

料理人として伊豆に来るまでの経緯や、現在のコロナによる影響のお話を伺いました。

 

ーよろしくお願いします。上野さんは、伊東市で働くまでの経緯を教えてください!

 

9年前に伊東に来ました。その前は六本木のお店で料理長をやっていたのですが、伊豆多賀で料理長をしている先輩から、伊東市の桜並木にある「守破離という旅館で料理長として働かないかというお誘いがあり、伊東市で働くことにしました。

当時、東京での仕事は環境が合わず、なんとなく違和感がありした。そんな時に働くことを誘われたので、伊東に行ったことはありませんでしたが、「楽しそうだな」と思って来てみました。

 

ー東京で違和感があったというのは、どのような部分に感じましたか?

 

東京では、料理長として思っていた仕事とは違うこともやらなければなりませんでした。「こんなことまでしなきゃいけないの?」と思うことがあり、その部分に違和感を感じていました。

 

ー板前歴はどのくらいの長さですか?

 

19年です。18歳の頃から専門学校に1年間行って、それから調理師になりました。その後はほとんどの期間横浜の「日本料理青柿」で修行して、そのあと先輩から六本木のお店に料理長として誘われて、約1年働きました。それから9年前に伊東に来て料理長として働き、4年前に今のお店を始めました。

 

ー料理を始めようと思った理由は何ですか?

 

物心つくぐらいの時から料理は自然とやっていました。好きかどうかというよりも、あまり意識せずにやっていました。

学生時代も、お弁当屋さんやファミリーレストランなど、飲食のバイトをしていました。

実家でうちの母親も飲食関係のお店を経営していたので、それも影響しているのかもしれません。

 

ー日本料理を選んだ理由はなんですか?

 

日本料理が一番かっこいいと思ったからですかね。

昔はカウンターから厨房がはっきり見えるお店は日本料理店がほとんどでした。そこで目にした振る舞いのかっこよさのイメージがあり、和食のイメージが僕の中で強かったのかもしれません。

 

ー伊東で働いてみて、働きやすさはありましたか?

 

働きやすいというよりも、暮らしやすさが大きかったです。伊東で働き始めたころはむしろ、食材の仕入れが大変でした。東京や横浜では前日の夜中に食材を注文しても次の朝には届くのですが、伊東だと同じものを注文すると1日以上かかったりします。

ただ、4年前からこのお店を始めた時からは、伊豆周辺のいい食材を買うことができるし、注文も生じるタイムラグを計算して発注するようにしたので、その点については問題なくなりました。

一方で暮らしについては、東京にいた頃よりもゆったりできていました。「守破離」で働いていた時は、朝食の準備もあるのでもちろん早起きするのですが、朝の準備が終わった後は十分休憩することができました。

環境が合っていたので、仕事をしていても心にゆとりを持つことができ、東京で働いていた時のしんどさを感じることはありませんでした。

 

ーお店を始めた理由はなんですか?

 

僕の妻の言葉がきっかけです。僕は伊東で料理長をしていた時、またいつか東京に戻るのだろうと思い、自分のお店をやるなんて全く考えていませんでした。当然、伊東で結婚するなんてことも想像していなかったのですが、妻との出会いがありました。そして妻に、「自分のお店をやらなきゃ意味がないんじゃない?」と言われたのです。せっかく職人として仕事をしているのに、勤め人で終わっていいのかと問われ、「確かにそうだな」と思い、自分のお店を持つことを決めました。

妻の言葉がなかったら、この決断は絶対にせずに、勤め人で終わっていました。

 

ー奥さんとはどのように出会ったんですか?

 

妻は、焼肉屋「ふくちゃん」の隣に昔あった「和風スナックとも」というお店でママをやっていました。「ふくちゃん」でご飯を食べていたとき、そのお店のお母さんが「隣のお店のママ、面白いから行ってみなよ」と言われ、そこで初めて今の妻に会いました。

 

ー上野さんから見て、奥さんはどのような人ですか?

 

明るい。面白い。そして面倒見がよくて、かわいがっている若い子が困っていたりしたら、必ず助けに行って話を聞いたり、できることをやっていたりしてますね。

性格で言ったら、妻がプラスで、僕がマイナスかもしれません。正反対の性格ですね。

 

ー料理長としてではなく、お店のオーナーとして働いて感じた難しさはありますか?

 

最初は、お客さんと喋ったり、手元を見せて料理をしたりすることに慣れなくて、そこが大変でした。ただ、このような手元が見える形で清潔感のある調理をすることで、お客さんには安心して料理を食べてほしいと思っています。

キッチンの配置は僕が考えましたが、お店全体のレイアウト(個室、色合い、障子の紙)は全部妻が考えました。

 

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SNSでの発信も多いですが、それも料理を安心してほしいという気持ちからですか?

 

それもありますが、SNSを見た人が興味持ってくれたり、日本酒好きの人が来てくれたりしたらいいなという気持ちが大きいです。

あとは常連のお客さんに「こういう食材が入ったよ」と情報を流しているという意味もあります。

 

ーお店をやっている中で大変だったことはありますか?

 

最も大変なのは今のコロナです。給付金が無ければ、余裕で潰れてしまっていました。

ただ、どの時期が大変だったということはなく、基本的にいつも大変で、不安を感じています。

例えば、桜が咲く時期は忙しいイメージがあると思うのですが、うちのお店は大通りから外れた場所にあるのでそれほど忙しくないんです。それであまりお客さんが入っていないとき、不安に感じます。

僕はハラハラしながら毎月過ごしています。住宅ローンなどの固定費は毎月ギリギリで払っています。コロナの中でもそうですが、基本的にずっと大変です。どの時点で大変だったというのはそれほどありません。

 

ー現在、コロナの中でお店はどのように経営されていますか?

 

今まではコースと単品料理を提供していたのですが、今は単品料理をほぼやめて夜はコースだけにしました。貸し切りの予約の場合は希望に合わせたコースにしています。

基本的に、予約があった時だけ仕入れて仕込みをするようにして、ロスを減らしています。それでなんとかギリギリを保っています。

一度感染者を出してしまえばその影響は非常に大きいものになる一方で、経営をしなければお店はやっていけなくなってしまいます。

そのため、感染対策を万全にしつつ、お店を開いている状態です。

コロナによる影響はその実害だけではありません。仮にうちが感染者を出したわけじゃなくても、周辺で感染者が出たとしたらうちのお店が原因だと勘違いして噂が広がってしまう可能性もあります。もし間違った噂が流れたら、お客さんが感染したら、僕自身が感染したらと考えると、本当に怖いです。

今のコロナの状況を見ていると、感染者はどうしたって出てしまい、完全な0にすることは難しいのではないかと思っています。そして、その0を目指すことで僕たちのような飲食店はこの先絶対に厳しい状況になります。

コロナ感染者を出すことは確かに避けなければならないことですが、感染対策をしながらお店を経営し、お客さんにも安心して来店していただけるような環境ができればと思っています。

現在は売り上げと、足りない分は持続化給付金を使いながら経営しています。それらのお金を使い切る前に、みんなにコロナでの感染対策をしながら上手に伊東に来られるようになってほしいです。今は東京のお客さんが来たとしたら怖いと思ってしまう人も多いと思いますが、そう思わないよう、上手な方法で、別荘を持っている首都圏の常連さんが戻ってきてくれるようになれば何とかなると思います。

今はまだコロナが収まらないので、戻ってこれないのはしょうがないことです。

少なくともこのコース一本の方法は、しばらくやめられないです。

 

ー以前近辺の飲食店さんが上野さんと飲みに行くことがあると言っていたのですが、この近辺では、飲食店同士の繋がりが強いですか?

 

妻が「和風スナックとも」経営していた時に、飲食店経営者で仲良くしてたので、大体知っていてます。「花のれん」という炉端焼きのお店のマスターは70歳を超えているのですが、妻がずっと付き合いがあったので、それがきっかけで仲良くさせてもらってます。ほかの飲食店に行って、「とものママってどんな人ですか?」って聞いてもらうと早いと思います。笑

 

ー「炭火割烹とも」の名前も、「和風スナックとも」からとったのですか?

 

そうです。妻のことを知っている人は、この地域では多いので、知ってもらえると思ったからこの名前にしました。「あのママが夫婦で始めたんだ」と思ってもらえたらいいなと考えました。

 

ーメニューは、どのように考えているんですか?

 

料理やコースの内容は僕が決めています。単品をやっていた時も、入ってきた食材によってどんな料理ができるかメニュー表に書き出していました。

お酒は日本酒だけ僕が決めて、残りは妻が決めています。

 

ーメニュー決めるのって、難しくないですか?

 

難しくはないです。基本悩まないですね。伝わりやすさを重視して決めているからかもしれないです。例えば、「柳川風」(ゴボウと卵でとじたもの)の料理は、言葉では伝わりづらいのであまり使わなくて、基本的に「卵とじ」として出しています。

 

ー将来、どのようなお店にしたいとか、将来の夢はありますか?

 

大成功した時の夢と、ギリギリの生活だった時の夢とで、ランクがあります。

大成功した時の夢は、カリフォルニアに移住ですね。笑

いつもいい天候なので、その中で細々とお店を開いて「ふわふわさつま揚げ」を揚げたいです。

一番下のランクの夢は、老後に、人並みの最低限の生活ができればいいと思っています。笑

 

ーちなみに、何でカリフォルニアがいいんですか?笑

 

天候がいいからです。それだけですね。天候が良ければ、ヨーロッパでもいいです。響きがいいから、今パッとカリフォルニアが出てきました。

 

ー昔は料理を自然と始めたとおっしゃっていましたが、現在は料理が好きという感覚はありますか?

 

今は好きというよりは、生きるためにやっています。

好きでやれるのは、さっきの夢で言うと中ランクくらいより上の夢ですね。規模の小さいお店で、お客さんと楽しく関わりながらやれるお店ができれば、仕事やっててよかったとか、仕事楽しいなと感じられると思います。

今はまだ必死でやっている状況です。僕の顔からはあまりわからないかもしれませんが、がむしゃらというか、とりあえずやれる限りのことはやっているという状況です。

普段は笑っていることが多いのでのんきな性格だと思われがちなのですが、実はいつも必死です。お店をやめてしまうと生きていけないので。


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【インタビューを終えて】

 「一番大変だった時はいつですか?」という質問に、今が一番大変だという答えが返ってきたとき、飲食店のコロナによる影響を、言葉で初めて実感しました。飲食店を経営していない僕は、コロナの中では、「外出するかしないか」という部分しか考える機会がありませんでした。しかし今回インタビューさせていただいて、コロナによって生活が大きく左右される人がいるということを強く感じました。コロナの感染は確かに防がなければなりません。しかし、それが完全自粛の形になるのではなく、しっかり感染対策をしながら、お店を利用したり、外出ができるようになってほしいと思いました。そっちの方が、お店もお客も、きっと幸せを感じられるはずです!

 一度お店でランチを食べたことがあるのですが、お店に入る前に検温したり、距離を保って席を作っていたり、飛沫感染防止のシートを設置したりなど、できる限りの感染対策をされていました。

 また、お客の料理を待つ時間を少なくするように、予約の際にメニューをあらかじめ聞いて、来店時間に合わせて調理する工夫までされています。

 僕はその時は親子丼、友人はマグロ丼を食べました。とっても美味しかったです!

 

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お店を利用して感染対策を見て、美味しいランチを食べて、上野さんのお話を聞いて、コロナの中でも、このような形で多くの人がコロナの感染対策をしながらお店を利用できるようになってほしいと強く思いました。普段生活しているだけでは気がつくことができないコロナの影響を、はっきりと感じたインタビューでした。

上野さん、ありがとうございました!

「静岡のつどい」について

今日から、地方公務員の本のアウトプットともに、自分の日々の活動、思ったことを記録していくことにしました。

今日は、最近立ち上げた「静岡のつどい – Shizuoka a Gathering」についてお話しします!

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静岡のつどい – Shizuoka a Gathering」とは?
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地元のことを知り、好きになる、誇りに思う。そしてその思いを広げていくことを目的にしたグループです。
主な活動内容は、静岡にゆかりがある人へのインタビュー(ジモシルインタビュー)、県内を散策するジモシルウォーク、そして定期的なオンラインでのミーティングです。

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素敵な仲間たち
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静岡のつどいを立ち上げて、ほんとに素敵な仲間に恵まれました。
島田市の杉浦元紀さん、白倉麻里奈さん、磐田市の近藤誠人さん、伊東市の幼なじみの鎌田悠也。みんな本当に優しくて、いい人たちです。
島田市磐田市の3人にはまだリアルであったことはありませんが、オンラインミーティングで、その人柄が伝わってきます。絶対にいつか会いに行きます!

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始めてみて感じた変化
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実際に始めてみて、自分の中で地元である伊東市が好きになりつつある感覚が、確かにあります。
インタビューを始めるまで、こんなに面白くて、熱い思いを持っている人たちが地元にいるなんて知りませんでした。こんな人たちがいるなら、自分の地元はまだまだ大きな可能性がある!
本気でそう思えるようになりました。
まだまだこれからですが、もっと動いて、量を重ねて、自分の地元を知り、発信して行きます。

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一つの目標
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このグループをやる上で一つ目標にしていることは、静岡県内の32市町の全自治体からメンバーを集まることです。
自治体集まったら、ワクワクしません?
燃えません?
この目標、絶対に達成したいです!
だから今は、自分たちのストックを貯めて、このグループを魅力的にしていく時期だと思っています。
集めるのではなく、自然に人が集まってくるグループへ。まずは自分が熱狂して、手を動かします‼️🔥

ジモシルインタビューVol4(上原譲)

【第4回インタビュー】

第4回は、今年伊東市役所に新規採用職員として入庁した、収納課の上原譲です!

なんと僕と同い年です!

伊東商業高校、日本大学を卒業しました。

高校時代は、ボクシングのバンダム級でインターハイ3位。

大学時代は日本大学のボクシングで副キャプテンを務め、最高学年の時に全日本大学王座決定戦で、部として5連覇を達成しました。

ボクシングについて、伊東市について、聞きたいことを全て聞きました。

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~高校時代~


ーお願いします!ボクシングは、いつから、どういうきっかけで始めたの?


ボクシングを正式に始めたのは高校から。

中学まで空手をやってたんだけど、中3の9月に道場が閉まってやることがなくなった時、父とボクシングジムの社長の繋がりで、ボクシングに誘われたのが始めたきっかけ。運動したかったから、中学卒業するまでは週一でボクシングやるようになった。

高校は運動部に入るつもりはなかったけど、運動しないのは嫌だったから、最初は週2,3回くらいでボクシングを続けてたね。空手しかやったことなかったから、新しいことを本気で続ける気はなかった。

でも、高校入って2か月くらいしたら毎日行くようになってた。友達も2人一緒にボクシングやってたし、ボクシングも普通に楽しくて。その時も試合出るつもりは全くなかったけどね。

初めて大会に出たのが、11月の選抜大会。本気でやった時の辛さを知ってるから趣味程度でいいと思ってて、「俺は出ない」って言ったんだけど、父親に「出ろよ」と言われて強制的に出ることになった。父は、野球もサッカーもやってたし、高校の時は本気で陸上やってて、その影響でスポーツに力が入ってた家庭だった。


ー初めてのボクシングの大会はどうだった?


もともと出場者が県で5人だったけど、準優勝だった。東海大会には1位しか進めなかったから、その時は県予選決勝で負けて出れなかった。大きく意識が変わったのは、ここで負けてからかな。悔しさがあって、そこから、遊びとか趣味じゃなくて、真剣にやろうって思うようになった。


ーボクシングって、やっぱ練習きつい?


 きついよ、減量もあるし。減量は、試合の3週間くらい前からやってた。食べる量は減らさないといけないし、減量が下手だと水分接種も控えないといけない。追い込めない選手は勝てないから、きつくても追い込んでた。それに、基礎練やってても面白くないからね。基礎練は嫌いだったな。というか、練習が嫌いだったね(笑)。

 でも、ボクシングはマイナースポーツだから、全国にいける可能性が高いんだよ。静岡は特に人数少なくて、県で優勝すればインターハイ行けるから、それは一つのモチベーションになった。あと、やっぱりボクシングは自分に向いてるのかなって思う。空手の先生に後から言われたことなんだけど、「当て勘」が自分にはあったみたい。「当て勘」っていうのは、パンチを当てるタイミングのこと。これがある人は、「このパンチを出せば当たるな」っていうのが、勘でわかったりするから、それはボクシングにも通じるんじゃないかなって思ってた。


ーボクシングの好きなところってどこ?


 まず、ボクシングのスタイルは3つあって、前に出て接近しながら戦う「インファイター」、相手との距離を保ちながら戦う「アウトファイター」、インファイターとアウトファイターの両方で戦う「ボクサーファイター」。自分は「ボクサーファイターのアウトファイター寄り」で戦うことが多い。「当て勘」があってカウンター重視で戦えたから、この戦術をとった。

 この前体験してみてわかったと思うけど、ボクシングって、ただ腕で殴りあうだけじゃなくて、全身運動だったでしょ?その中でも「駆け引き」があって、体力的にきつくても頭を使いながら戦えるような、ボクシングIQが高い選手じゃないと勝てない。だからカウンターをとるために考えて、エサを撒いて、誘い出して、相手が来たところにパンチを打つ。勝った時の嬉しさももちろんあるけど、パンチを当てるまでの過程を自分で作って、それがうまくいったときの楽しさが本当に大きい。パンチ打たれるとむかつくし、「パンチ当てたいな」って思ってムキになりそうなこともあったけど、その気持ちは抑えるようにしてた。


ーボクシングって、殴られるじゃんね。怖くないの?


やっぱり最初は怖かったよ。顔殴られるなんて経験なかったからね。


ー試合中はやっぱり疲れる?


疲れるね。特に自分はスタミナが無かった上に、アウトファイターで、スピードが武器だったから、試合中はずっと短距離走ってるみたいに動き回る状態で戦ってたから、余計疲れた。でも、高校は2分×3ラウンド、大学は3分×3ラウンドで時間が短くて、捨てられるところがないから、集中は切らすことができなかった。


ー高校の時、思い出に残ったエピソードってある?


一番心に残ってるのは、高2の1月に千葉でやった合宿だね。高2は、インターハイは出たけど初戦で負けて、その後の新人戦県大会は決勝で判定負けして、すごい伸び悩んだ時期だった。その時あったのがこの千葉での合宿。一つ年上で全国ベスト4常連の人と試合できる機会があって、そこで変わった。他の先生から「危ないからやめとけ」って言われたんだけど、うちのジムの人が「やってみなきゃわかんねぇだろ」って言って押し切ってやらせてくれたんだよね。それで試合したら、やられた部分はあったけど、予想以上に自分の力が通じたんだよね。そのあと、その試合した人から、「すごくいいもの持ってるから、頑張って。」って言ってもらって、「あ、俺でも通用するんだな」って思って自信を持てたのが、変わったきっかけかな。

 ここが本当に自分にとってのターニングポイントだったって思ってる。やっぱり、実戦で伸びるときはすごい伸びるから、ここで変わったっていうのは、実感した。


ー高校最後のインターハイ予選は、県も東海も優勝で、全国3位だよね?全国3位になった感想って、どうだった?


成績はそうだね。全国3位はもちろん嬉しかったけど、試合で負けて感じた最初の感想は、やっぱり悔しさだった。本気で優勝狙いに行ってたから。でも、インターハイは、新人戦でシードとった選手がそのまま勝ち上がっていくっていうのが普通だったから、全国で成績を何も残していない無名の自分が上に上がれたのはすごい嬉しかった。


ー全国三位になれた要因って何?


 バンダム級の中だと、自分は割と身長が高くて、リーチが長かったっていうのがあった。後は、トーナメントのあたりがめっちゃよかったんだよね。


ーえ、でも、3位になるまでには結構強い相手と当たるよね?(笑)


 もちろんインターハイだからどの相手も強かったけど、ベスト8くらいからは本当に強い人しかいなくなるから、準々決勝でやった相手はそれまでより強かった。準々決勝の試合は、今までで一番面白い試合だったかもしれないな。自分と似てるような戦術をとるタイプで、同じような実力で、同じような駆け引きで勝負して。準々決勝は確かに運だけじゃ勝てなかった。気持ちももちろん大事だけど、やっぱり冷静さは大事かな。パンチを打って、相手には打たせないっていうのがボクシングの試合での理想だから、そこを常に考えながら戦えるような、冷静な選手じゃないと勝てない。

 でも正直、準々決勝は自分の中では負けたって思ったんだよね。その試合のインターバルでセコンドに「1ラウンド目とって2ラウンド目とられたから、最後の3ラウンド目が勝負だぞ」って言われて3ラウンド目に臨んだんだけど、めっちゃ相手からパンチ打たれたんだよ。それで「うわぁ、負けた。」って終わった直後には思ったけど、判定だと自分が勝ったんだよね。その後「俺負けたと思った」って周りの人に言ったら、「いやいや、全然に勝ってたよ」って言われたから、実際試合してるのと周りから見るのとだと、感じ方が違うみたい(笑)。


ーボクシングって強い人で優しい人結構いるイメージだけど、それって関係ある?「神の左」の人とか。


 山中慎介さんね(笑)。強い人って、人間ができてるなぁって思う。長谷川穂積さんとか井上尚弥さんも。ボクシングが強いだけじゃ、やっぱり限界はあるよ。

 

~大学時代~


ー大学は、ボクシング続けるつもりで入ったの?


 いや、実は、大学すら行くつもりは全くなかった。そもそも大学を学力で入れるレベルにまで達してなくて(笑)。それに学費もかかるから、大学は行かないつもりだった。でも、5月にインターハイ出場が決まった時に、うちのジムの社長、会長、コーチがみんな日大出身だったから、「日大どう?」って誘われたんだよね。最初は日大ってどんなところかも知らなくて、進学もしないつもりだったから「考えときます」くらいに適当に答えたんだけど、6月に東海大会で優勝した時に、「ご褒美で東京連れてくから、大学のリーグ戦見に行こう」って社長たちに言われて見に行ったんだよ。それ見に行った時に、衝撃受けた。すげぇカッコよかったんだよ。日大のユニフォームは赤で、ジャージも赤いやつ着て、部員の数も多くて、めっちゃ盛り上がってて、「超カッコいいじゃん!」って感じて、その時初めて「大学行ってみたいな」って思った。

 でも、お金もかかるし、弟もいるし、まずは高校のボクシングをやり切れるまでやり切ろうと思って、引退するまでは返事はしなかった。その後、インターハイで3位になったおかげで、推薦と学費を多少免除がとれることになったんだよね。そこで親と話したら、「行きたいなら行きな」って言ってくれて、大学に行くことを決めた。


ー大学の部活もやっぱりきつかった?


 きつかった。高校よりも全然きつかった。練習内容自体は、高校時代のほうがきつかったけど、大学は精神的にきつかった。うちの大学って、監督とコーチに指導してもらう機会が少ないんだよね。だから、自分たちで考えながら練習しないといけない。悩んだときにも自分で解決しないといけない。うまくいかないときでも、部活だから練習はあるし、悪いなら悪いなりにやらないといけなかった。

 それに、大学の時は、ずっとスランプだった。同じ大学の選手も他大学の選手も全員強くて、どんなに練習積んでも勝てるビジョンがなかなか見えなくて、怪我も多かったし、レベルの高さを痛感した。精神的に本当にきつくて、ずっとうまくいかなかった。当時はボクシングを楽しめなかった。基本、ボクシングは嫌いで、楽しさを感じた時期は一度もなかったかもしれない。厳しいルールも本当に多かったしさ。


ー大学の時はそれでも副キャプテンをやったんだよね?どういう流れでなったの?


 監督と、一番上の代が次の代のキャプテンと副キャプテンを決める。副キャプテンは3人で、俺がそのうちの1人になった。あと、副キャプテンと一緒に、総務も任された。寮の仕事とか、部活の庶務関係とか、主務の仕事。パソコン使える人が俺以外にいなかったからね。合宿中は特に、副キャプテンで部活まとめながら、そのあと総務の仕事やったりして、忙しすぎて不眠症になったこともあって、本当に大変だったな。


ー5.60人もいたら、部員間で温度差出てこない?


 あるある。それに、うちの代のキャプテンって、言葉でまとめるのが苦手で、練習の姿勢とか実力で引っ張っていくタイプだったんだよね。本当に強かったから、それで引っ張っていけて、それがうちのキャプテンの特徴だった。その分、自分含めた3人の副キャプテンで、キャプテンのできない部分をまとめてた。副キャプテンの中でも役割が分かれてて、副キャプテンの中でリーダー的役割の人がいたんだけど、部員の不満も結構多くて、「自分言ってるくせにやってないじゃん」とか言われてることもあったんだよ。自分はチーム内で揉めるのは好きじゃなかったし、もともと後輩たちと関わることが好きだったから、コミュニケーションをとって、不満あったら言いやすい環境を作りやすかった。やっぱ上下関係厳しいけど、それで言いたいことが言えないのは嫌いだったんだよね。俺も1年の時にそう思ってたから。「俺は気にしないから言ってこい」って後輩たちには伝えて、後輩の「こうしたいです」っていう意見をしっかり聞くようにしてた。


ー怒るとかじゃなくて、会話して意見取り入れるタイプだね。


 そうだね。ミスは誰にでもあるからさ。意識が足りなくて何回も同じミスするなら怒ることもあるけど、基本的にミスがあっても「しょうがない」って言ってたね。そんなに怒ってもしょうがないし、自分がまず怒られるのも怒るのも嫌いだしね(笑)。だから、自分がまず人にやられて嫌なことしないようにしようって意識して運営してた。


ー怒ることもあったんだね。俺そういうのできないんだよね、すごいわ(笑)。


 それは時にはあったね。部活やってる以上、なあなあにやるわけにはいかないから、言うべき時はしっかり言うようにしてた。でも、怒るのはやっぱり苦手だよ。怒るときも怒鳴るとかじゃなくて、諭しながら言うタイプ。部員に何か言うときは、ちょっと呼び出して、話しかけるように注意してた。


ー部活まとめる中で意識してたことって何?


 コミュニケーションは一番大事にしてた。部員が多いと、本気でボクシングやりに来ている人もいる一方で、大学で学ぶことを重視してボクシングをメインにしてない人も、いるにはいるんだよ。そこで絶対に出てくるのが、部員間の温度差。ここをどうするかが、部をまとめる上で重要だった。だけど、やりたくない人を無理矢理やらせるのは、自分は好きじゃない。自分も大学で壁にぶつかって、「もうやりたくないな」って思った時期もあったからね。だから、本気でできてない部員には、強制するわけでも放置するわけでもなく、「本気でやってる人たちの気持ちも理解しよう」と伝えて、一方で、本気で部活をやってる部員には、「こういうタイプの人もいるから」と言って、本気でできていない部員の気持ちを理解するように促した。部内で分かれないよう、そこの温度差を埋めてバランスをとることは意識してた。


ー部員も多いし、「やる気なければ部活やめちゃえば?」とは思わなかったの?


 確かに。本気でやりたくなくて「やめたい」って言ってる人を、無理矢理「やめるな」とは言うつもりはなかったよ。でも後輩から「やめたい」って相談があった時、「その先何か考えてる?」ってことは毎回聞くようにしてた。その先に何も見つかってないでやめるのは、一番もったいないから。だから、やめたがっている部員には、「やりたくないなら練習はしなくてもいい。でも、やりたいことが無いなら、見つかるまで部活は続けて、やめるのはそれからにしろ。」って言ってた。本気でやってる部員の迷惑にならないよう、最低限やらなきゃいけないことはやってもらいつつも、練習は強制しないようにしてたね。それで部活を続ける中で、自分自身で何か見つけることができるように促して、「何か言いたいことがあったら、ちゃんと言いに来い」って伝えてた。


ー総じて、大学の部活に入ってみて、どうだった?


 そういえば、中学高校って、自分は部活じゃなかったんだよね。高校時代のジムでも上に先輩がいなくて、ずっと自分がやりたいようにやってきたから、大学で初めて部活に入った時に、今までの環境と比べてすごい厳しいなって思った。言葉遣いもそうだし、後輩としての部の仕事もそうだし、慣れるまではそれが本当に大変だった。でも、部活は部活で楽しさはあったよ。人間関係に恵まれてきて、先輩たちの姿も見て、「こういう人間になりたいな」って感じたから、副キャプテンとしてここまで意識できたんだと思う。

よく大学で副キャプテンまでできたなって、自分でも思う。親も自分の性格知ってたから、「あんたよくできたね。」って言われたし、それが大学4年間で成長できた部分かな。


ー大学生活って、どんな風に過ごしてたの?


1年生の時は、朝は6時起床。それで朝6:15~8:00まで朝練やって、それで寮戻って風呂入って、廊下と階段の掃除して、朝食は上級生から食べて、洗面所の掃除してから学校行ってた。それで16:00までに帰ってきて、寮で寝てる先輩起こして、部活の飲み物用意して、練習場の掃除して、17:00~19:00まで練習。それで風呂入って、また廊下と階段掃除して、19:30から飯食って、21:30が門限。だから、実質的に自由な時間は門限までの2時間しか無かった。しかもその2時間の間に洗濯したり残った仕事したりしてたね。


ーえ、きつい!遊びたくならない(笑)? 週練習何回あるの?


めちゃめちゃ遊びたかったよ。でも練習は週6回だし門限も21:30だから唯一遊ぶ時間は、授業の合間と、週一の休みだけ。やっぱりもっと遊びたかったけど、サボる勇気もなかったからね。本当に辛すぎてグレた時期もあったけど(笑)。


ー寮って、嫌じゃない?強制なの?


嫌だよ、、、プライベートの時間もないし。でも、寮は強制だった。チームワーク的な意味でじゃないかな?すげぇストレスだったよ、めっちゃやめたかったもん(笑)。


ーやめようと思った時期あったのに、なんで続けられたの?


やめたがってる後輩に「その先何か考えてる?」って言ってたことを、一年の時から自分に課してたんだよね。それを考えると、やめた後にやりたいことが特になかった。それに、「卒業はする」っていう条件で親に大学行かせてもらったし。あとは、色んな人に支えられて大学に入ったから、やめたいけど、やめたら合わせる顔がないって思って、義務感で無理矢理続けてたね。


ー大学で部活やってみてよかったって思う?


 今考えれば、やってよかったって思うよ。もう二度とやりたくないけどね(笑)。

 人の縁は大事にしないといけないなっていうのは、大学の時に思えたかな。全国各地から色んな人が集まって、この場所に行かなかったら会えなかった人たちに会って、考え方も違って対立することもあったけど、4年間寝食ともにして、家族よりも一緒にいる時間が長かった。だから、自分にとってはもう家族同然だし、そういう人たちの縁を切っちゃいけないなって思う。大学の同期は一生の友達だし、先輩も面倒見てくれる先輩ばっかだったし、自分のことを慕ってくれる後輩も多かったし、いまだに連絡とって会ったりする。人の縁って大事だなって思う。


ー日大が五連覇できた要因って、なんだと思う?


 やっぱり厳しい寮生活があったからかな。うちの部は全国のボクシング部の中で日本一きついって言われてて、あの寮生活があったから勝てたんだろうなって思う。当時は「何わけのわからないこと言ってんだ」って思ってたけど、卒業して振り返ると、やっぱりあの寮生活は大事だった。リーグ戦は9対9のチーム戦で戦うから、戦うのは一人一人の個人だけど、応援で変わってくる部分も確かにあるんだよね。寮生活であれだけきついことやってたから、そこが団結感につながったんだなって思う。日大って、リーグ戦がやたらと強かったんだよ。6対3とか、7対2とかで勝つことが多くて、競ってもしっかり勝つんだよね。


ー礼儀も大切にしてる感じあるよね。ボクシング部のブログ、更新頻度めっちゃ多いし、OBと会食するとお礼のブログ投稿してるし。


 そう。うちの大学の部訓は、「目標はチャンピオン 目的は人間形成」。この部訓には2つ意味があって、1つは、人間として強くならないと、ボクシングも強くならないという意味。そしてもう1つは、大学でボクシングやるのは4年間しかなくて、その後の人生のほうが、圧倒的に長い。だから、社会に出ても恥ずかしくないような人間に育てようって意味が込められてる。この部訓を守るために厳しいルールがあって、当時はその意味を理解したくないほど嫌だったけど、それを当たり前として社会に出た今、「あのルールって大事だったんだな」って気づく場面が結構多いんだよね。挨拶一つとってもそうで、ボクシング部で学んだことが、ボクシング以外で役に立ってることが本当に多くて、今思えばあの経験にすごく感謝してる。


ー今まで振り返って、ボクシングを通して学んだことって何?


 1つは今言った、人間として強くあることで、もう一つは、高1の時の担任の先生から言われたこと。

 高校の時は部活じゃなかったから、試合に出るには学校の許可が必要で、それが認められてから、その担任の先生が引率に来てくれてたんだよね。この時の担任の先生が高校の恩師で、「感謝を忘れちゃいけないよ」って自分に言い続けてくれたんだよ。その言葉のおかげで、色んなことに感謝の気持ちを持つことができるようになった。

 まず、部活じゃないのに試合に出場することを認めてくれる学校がある。それに、指導してくれる人もいて、減量もある中で生活面を支えてくれる家族がいて、応援してくれる人がいて、挙げるとキリがないほど本当にたくさんの人に支えられてきた。そして、その人たちの支えがあるから、試合に出られる。「感謝を忘れちゃいけないよ」っていう先生の言葉でそのことに気づき、感謝の気持ちを持つことができたから、先生には今でも本当に感謝してる。親にも言われたことはあるんだけど、親に言われても中学、高校の自分じゃ「うるせぇなー、わかってるよ」くらいにしか思えなかったから、第三者に言われて初めて「すごい大事なことだったんだな」って思えたね。

 今までのボクシングでの経験を通じて、高校の時には感謝の気持ちを学べて、大学の時は人としあるべき姿を学ぶことができた。


ー俺も、家族への反発はあったな。


 父親は結構強制してくるんだよ。練習毎日行けとか、帰りの車も試合終わった後も説教だったりとか、その時は本っ当に父親のことが嫌いだった。だけど、インターハイで3位になった時、誰よりも喜んでくれたのが、父親だったんだよね。だから、インターハイ3位になって、メダルもらって一番良かったことは、父親が喜んでくれたことで、それが自分にとって一番嬉しかった。


ー感謝の気持ちって、持とうと思って持てる?俺、勝ったら絶対に調子乗っちゃうな。


 これもさっきの高校の恩師に言われたことなんだけど、「良いも悪いも目立つ」って言われてた。全国3位になれば当然目立つけど、その分悪いことも目立つってこと。だから学校に試合を出してもらって勝った分、感謝は絶対に忘れちゃいけないし、最低限やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないし、勝って調子に乗ってやっていいことなんて一個もないと思って、謙虚でいようと思ってた。


ー大学で部活続けられたのは義務感だったのに、部の勝利のためにそこまで尽くせたのって、なんで?


 義務感はあったけどなんだかんだ自分が個人としても大学としても負けたくなかったからかな。それと、面倒見てくれる先輩がいて、そういう先輩も、同期も、後輩も一生懸命頑張ってるのを見て、その思いを犠牲にしたくはなかった。だからサポートに回るときは勝つためにサポートしたいって気持ちが大きかったからかな。もちろん、やりたくない時期もあったけど、それでも一生懸命やってる人たちのためにサポートがしたいって思いのほうが大きかったね。

 感謝の気持ちと謙虚な心は、今でも自分の中で忘れないようにしてる。


伊東市役所入庁~


伊東市役所には、何で入ったの?東京に住みたいって思わなかった?


もともとこっちに帰って来るつもりだったから志望した。

東京に住みたいとは、もう思わなかったね。人混みが苦手だったし、地元には友達も多いから。


ー伊東は好き?


 好きだね。この田舎感がいい。宇佐美で生まれ育ったから、宇佐美の人と町が特に好き。伊東に帰ってきた理由も、伊東の人が好きっていうことが一番大きくて、何かあったら助けてくれる人が多い気がする。


ー逆に、伊東の課題って、どこにあると思う?


 職がないことかな。それが原因で、外に出てった人が戻ってこないってことは多いからね。地元にしかできない仕事があって、興味持ってくれる人が増えたら面白いなって思う。


ーずっと役所にいるつもりなんだよね?伊東市で働いている中で、やりたいことってある?


 一個夢があって、「伊東といえばボクシング」っていうイメージにして伊東を盛り上げたい。まず、ボクシングはまだマイナーだから、もっと人気になってほしいって思う。海外だと、ボクシングは人気でお金の動きも大きいんだけど、日本はまだまだ動きが小さいんだよね。人が殴られる機会って普通に見ないよね?そこのスピード感、殴る音とかは、一回見るだけでもすごいってわかる。ボールを打ったり蹴ったりじゃなくて、人同士が殴りあうって所には迫力があるよ。

 それに、ボクシングを始めてほしい理由は二つあって、一つは、マイナースポーツだから、その分全国大会に出れる機会が多い。もう一つが、ボクシングは階級が分かれてるから、体が小さくても戦うことができるっていうこと。だから、あるスポーツで体が小さくて悩んでる選手がいるんだったら、「ボクシングをやってみない?」って誘ってみたい。

近くに伊豆ボクシングジムで練習できる環境があるし、それで成績を残せば大学の推薦がもらえて先につながるから、やってみてほしいなって気持ちがある。

 それにうちのジムって、プロに加盟してるんだよ。だから、普通にプロの選手がジムから試合に出ることができる。そこでプロの選手が勝って盛り上がってくれれば、スポンサーがついて、応援してくれる。それで選手がさらに強くなれば、「試合見に行こうよ」っていう人との繋がりが広がって、地元全体がプロを応援する。プロの選手が増えて、スポンサーもついてくれれば選手の働き口もできるかもしれない。それで「ボクシングやりたい」って人が伊東に来て、伊東を好きになってくれれば移り住んでくれる。だから、ボクシングで伊東が盛り上がってくれれば、すごくいいんじゃないかなって思う。

 ボクシングって痛いイメージが強いけど、全身運動ができるから、ジムの会員って、結構年配の方も多いんだよ。だから、ボクシングを選手じゃなくてトレーニングとしてやれば、痛くもないし、健康にもなれる。普通の人は、そんな激しい殴り合いなんてしないし、ボクシングを体験できる経験さえ提供できればなって思う。

 ボクシングやりたいならジム入ればいいじゃんって思うかもしれないけど、自分が役所の中にいれば、ボクシングの町にするためにうまく協力できるんじゃないかなって思ってる。


 〜〜〜 


【インタビューを終えて】

 高校時代、伊東商業の前を通るたびに上原譲の名前の横断幕が出ていたので、僕は彼の名前を知っていました。ボクシングやってるからいかついイメージを勝手に持ってましたが、初めて市役所で会ったとき、礼儀正しい譲の人柄からは、格闘技をやってるなんてとても思えませんでした。

 しかし、インビューを終えて、彼のような人間だからこそ成績を残すことができたんだと気が付きました。人と殴り合う競技だからこそ、頭に血を上らせず、勝つために頭を使う冷静さが求められる。そしてその冷静さは、日々の生活から形作られて行くのだと思います。

 圧倒的なまでに他者に感謝を持てる姿勢はすごいです。学校から試合に出る許可が下りたくらいでは、僕は当然だとしか思えないかもしれません。でも彼は、その学校の許可にさえも感謝し、支えてくれるあらゆる人に感謝していました。その感謝の気持ちが彼を奮い立たせ、辛いことでも乗り越えてきたのだと感じました。

 副キャプテンの話も本当に勉強になりました。彼は、組織の中で必ず生まれるであろう温度差を、相互に理解しあうことで埋めようとしていました。悩んでいる人を叩きあげるわけでも突き放すわけでもなく、寄り添うことで全員が前に進める環境を作る。僕も部活をやっていたので彼の考え方を自分と比べてしまい、「自分じゃできなかったな、すごいな。」って終始思ってました。年が近いとこういう話、なかなか聞けないので、本当に貴重な経験でした。そして僕も、このインタビューで譲から学んだことを、部活でできなかった分、これから活かしていきます。譲、ありがとう!!

 

ジモシルインタビューVol.3(足達誠也さん)

ジモシルインタビュー第3回は、株式会社スマートステイの代表取締役である、足達聖也さんです!https://sumasute.jp/

 伊豆の空き家をリノベして、貸別荘・民泊・移住体験・合宿研修を行ったり、伊豆の不動産売買や売買仲介も行っています。現在は21棟の物件を運営されています。

 インタビューで最初に口にされたのが、「僕はどっちかっていうと引きこもりタイプ」という言葉。そんな性格でも、地域のために活動されている理由や、その熱い想い、考えを伺いました。


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【はじめに】

 僕どっちかっていうと引きこもりタイプで、目立ちたくもないし、家でゴロゴロしてたいんですよ。でも、空き家再生する人が誰もいなかったので起業しました。


【政治家志望】

 僕はもともと政治家志望で東京に出たんです。

 大学では政治の勉強をして、政治だけでは足りないと思って大学院で法律を学びました。あとは実務だと考え、自民党のある国会議員の秘書を2年半やりました。

議員の秘書になれたので、政治家を目指す僕にとってはゴールデンルートでした。国の政治の中枢を見てこれたので、普通じゃできない経験ができましたね。ある議員には、授業料をいくら払ってもこんな経験はできないぞと言われました(笑)


【秘書としての仕事をやめるまで】

 秘書の仕事は主に「票を集めること」と「お金を集める」こと。そんな中で、パーティー券の営業をやったりもしていました。僕は永田町で働いていたのですが、不動産関係の団体に営業に行った時、ある人に怒られました。「お前、自分の地元見てみろよ。伊豆半島では空き家が増えてて、高齢化で、さらに人口も減っているじゃないか。今後どうするつもりだ?本当に社会貢献したいんだったら、東京でパーティー券売ってないで、空き家を活用して人を呼ぶビジネスやれよ。」と。

 その時は衝撃が走りましたね。「確かにそうかもしれない」と思いました。

 そして、伊豆高原の不動産会社に勤めていた父に電話して、市内の空き家状況を聞いてみたところ、「静岡県内で伊東市は空き家が最も多い部類に入るし、売り物件も多い。今後それはさらに増えていくだろう。」と言われました(※1)。

 そこで僕は、腹をくくってやるしかないと思いました。20代のうちに起業しなかったら体力的に持たないと思ったので、議員秘書をやめて、会社を立ち上げました。


(※1)伊東市空き家等対策計画 参照  https://www.city.ito.shizuoka.jp/material/files/group/21/itousiakiyatoutaisakukeikaku.pdf

空き家率は、静岡県内では熱海市に次いで多い39.3%(平成30年)。(「空き家」を「二次的住宅」、「賃貸用の住宅」、「売却用の住宅」、「その他の住宅」として定義)


【会社立ち上げ後】

 政治、法律は勉強してきましたが、空き家リフォームのノウハウも、不動産業も、それらを転用して宿をやる経験もありませんでした。それでも「やるしかない」という気持ちで、まずはやりました。

 最初は、ヤフーオークションで安くてぼろい幌付き軽トラを買い、首都圏で引っ越しをする人たちから家具・家電を集めて一か所に運びました。首都圏から伊東まで何十往復もしました。次に、集めたものを入れる物件を探すために、ホームページを作成して物件を募集しました。

 問い合わせがあった一番最初の物件は、宇佐美の海の近くで、車も入っていけないような物件。依頼主は中国の方で、競売で落札した物件でした。

「どうせこの物件を貸しても二束三文だから、民泊や貸別荘でやりたい。手伝ってくれない?」と言われました。「僕は経験が何もないですよ」と言いましたが、「それはお互い様だから、一緒に勉強していこうよ」と言ってくれました。

 その人は建物の中と外をきれいにしてくれたので、僕は家具・家電を中に運び込みました。二件目は両親の知り合いの別荘で、ハクビシンが住んでいるほど全く使っていない物件でしたが、ここもきれいにして家具・家電を運び込みました。


【初めてのお客】

 最初は、「こんな物件に誰が泊まりにくるんだろう?」と思い、お客さんが来るとは考えもしませんでした。しかし、いきなり3週間の予約が入ったんです。

 それはオランダから来た2人組でした。そのときは「まじか⁉」と思いましたね。

 あまりに驚いたので、直接会って「なんで予約してくれたの?」と聞いたら、「あなたがアップしていた写真が、とても惹かれるものがあった。ゆっくり絵を描くのに最適だと思った。」と言ってくれました。


【最低の掃除クオリティ】

 当時は、集客、接客、清掃、新規事業立ち上げ、会社の事務、全部一人でやっていました。しかし、3週間泊まってくれたお客さんには、「あなたの掃除のクオリティは最低です。すぐに掃除をしてくれる人を雇いなさい。」と言われてしまいました。(笑)


【石井さんとの出会い】

 ある日僕が富戸の物件の草取りをしていた時、近くに住んでいる石井さんという方に、「あなたどこの子?」と声をかけられました。そこで僕がやっている事業について説明したところ、「それだったら、何かあれば手伝うから、遠慮なく声をかけてちょうだい。」と言ってくれました。

 それ以来、石井さんが掃除に入ってくださるようになり、物件はピッカピカにきれいになりました。シニアの女性の方は、ホテル・旅館・貸別荘などで掃除の経験のある人が多い。石井さんもその一人でした。

 そしてその掃除のクオリティの高さもあり、お客がお客を呼び、稼働率が劇的に上がりました。さらにその噂を聞いた地元の人から、「空き家を持ってるんだけど、どうしたらいいか困っている。」という相談を受けるようになりました。それから運営する物件が増えていき、現在は21棟の貸物件を伊豆半島で運営しています。

 本当はそこまで手広くやるつもりはありませんでしたが、声をかけてくれる人が多かったので、ここまで増えました。


【足達さんの目的】

 僕の一番の目的は、伊東市の人口を増やすこと。

 「どうしたら人口が増えるのか?」という視点でビジネスをしています。

 伊豆の再生させた空き家に泊まってもらう。そこで伊豆を好きになってもらう。そうすれば移住したいと思ってくれる人は増えると考えています。単純ですね(笑)

 このサイクルを実現するために、会社で宅建業(※2)の登録もしました。移住したいと思ってくれる人がいたとき、その人に物件を紹介できるからです。そして、移住に関するワンストップサービス(※3)を確立させました。


(※2)宅地建物取引業のこと。不動産の売買・交換・賃貸借を行うことができる。

(※3)一つの場所で様々なサービスを受けられること。


【ワンストップサービスを提供したお客】

 一つ事例を紹介します。宇佐美の民泊を予約した外国のお客さんと事前メールをしている中で、「私もそっちで不動産を買って、貸別荘をやりたい。」と言われました。

 最初は、よくあるパターンの、投資だけしてあとは丸投げするパターンだなと思っていました。そこでその人に「運営どうするの?」と聞いたら、「こっちに来て、私が運営する。」と言ったんです。それでもまだ信じ切れず、「一時の熱で言っているんじゃないか?」と思っていました。しかし、彼女は日本語学校で勉強して、その後伊豆に移住するプランを立てていたのです。しかも、日本語学校の入学は既に決まっていました。彼女は、実家はシンガポールで、ドイツの大学院で音楽の勉強をしていたのですが、「過去に何回も伊豆に一人で旅行していて、伊豆が好きになった。」と言っていました。

 そこで、僕はビザや住民票取得の手続きを手伝いました。このような形でサポートしたのは、これが初めてでした。


【海外から移住する難しさ】

 この時、海外の人が日本に移住する難しさを知りました。まず、日本に住むには部屋を借りなければなりません。そして部屋を借りるには日本で銀行口座を作る必要があります。しかし、日本の住所が無ければ口座を作ることができないのです。

 このような矛盾した慣習があることで、外国の人が住民票を取りづらいのだということを、身にしみて感じました。「これじゃ移住は難しいな。」と思いました。


【外国からの移住の必要性】

 日本人の若い人たちの移住者を獲得するのは難しくなっています。まず、若い人や子どもは減っている。さらに、全自治体が移住者を募っている。それは福岡や大阪、東京でさえも同じです。そして、田舎ではなおさら、補助金を出してでも移住者を募っています。

 その政策的競争の中、伊東市が参入しても、勝つことは難しい。確かに地の利はあり、東京、大阪にも行きやすく、住環境もいいですが、大阪にも、福岡にも、首都圏にも同じような場所はあります。

 日本人移住者だけをターゲットにするのは、大して期待できないと思っています。だから、外国からの移住者を受け入れていく必要があります。どこの国から受け入れるかということには、まだ議論の余地がありますが、いずれの国にせよ、外国にターゲットを絞っていかないと、働き手担い手もいなくなります。現在、僕の運営している物件を掃除してくれるスタッフの平均年齢は、70歳を超えているんですよ。高齢にもなれば、度重なる業務は身体にも負担がかかりやすくなってしまいます。

 5年後、10年後の働き手をどう確保するのか。これは僕の業界でもそうですし、他の業界でも言えることだと思います。地域を支えてくれる人材の確保が不可欠なんです。


【人口を増やす意味】

 人が住んで、初めて税収を確保することができます。

 伊東市の歳入は、約2割を占める固定資産税が最も多く、その次は住民税が占めています(※4)。人が住まないと、税収は増えないんです。でも、日本人だけで移住政策を進めても、パイの取り合いになってしまう。保守的な考えを持ってしまうと理解しづらい部分はあるかもしれませんが、外国からの移住を募らないと厳しい現実があります。

 将来的に伊東市の人口は4万人を切るという予測がありますが(※5)、そうなると大手のチェーン店、レストランの採算は合わなくなるでしょう。これらのお店は、観光客だけではなく、地元の人も行っているから採算が合っています。そのため、人口が減ってしまうと、今の経済が回らなくなってしまうのです。まさに今、何かしなくてはなりません。


(※4)広報いとう2020.6参考https://www.city.ito.shizuoka.jp/material/files/group/3/koho2006.pdf

歳入約246億円のうち、固定資産税が約54億円、次いで市民税が約34億円となっている。この2つで歳入の約36%になる。

(※5)伊東市まち・ひと・しごと創生 人口ビジョン・総合戦略(P36) 参考

https://www.city.ito.shizuoka.jp/material/files/group/3/itocity_jinkouvision_sougousenryaku.pdf 早ければ2050年に伊東市の人口は約4万人になり、それ以降も減少する。


【行政に求められること】

 行政に求められることは、行政にしかできないことです。

 法律には、「解釈」と「運用」があります。

 例えば、「日本は軍隊を持ちません」という法律があったとします。その法律には、軍隊とは何か?実力部隊はいいのか?という、「解釈」の余地があります。そして、施行令、通達などでその解釈を「運用」する基準を決めます。施行令などで手当される部分はありますが、結局は実務上での裁量の部分が残ります。

 この裁量部分があるということは、担当者によって運用が変わってしまうことがあります。

 例えば、担当者Aは、「ここは〇〇しなくてもいいですよ」と言っていて、今までそれで許認可をもらっていたのに、それが担当者Bになった途端、「ここには◯◯しないといけない」と言われてしまうことがありました。法律は何も変わっていないのに、担当者の裁量次第で法律の「解釈」「運用」が変わってしまったのです。

 「市民に寄り添った行政サービスを提供する」「親切、丁寧に接する」というのは表面上の話で、大前提のことです。行政に本当に求められるのは、「いかに法律を安定的に運用して、そこに差別をなくすか」ということだと思っています。

 また、「政策の立案」も行政には求められます。国では色々な省庁があり、そこで各種団体や国会議員が関わってくるため異なる部分がありますが、小さな地方自治体の場合は自分たちで法律を運用するだけでなく、政策立案もしなければなりません。コンサルなどの外部に委託するお金もありませんから、なおさらその性格は強くなっています。

 「政策の立案」のためにはまず、政策のクオリティの担保をしなければなりません。そのためには、今まで行ってきた政策を見直す必要があります。例えば、ある課題の数値が目標に達しなかった場合、そこに割いた予算に対して結果が表れていないことになります。その時、「なぜそうなったのか?」検討しなければなりません。

 役所は、その自治体で最も大きい企業である場合が多いです。戦略的にやるのか、保守的にやるのかで、その自治体の未来は全く変わることにもなるでしょう。


【若い行政職員が考えておくべきこと】

 若いうちは窓口業務をやったり、事務系の仕事が多かったりしますよね。

 そのようなうちは、法律の運用の公正さをしっかり確保していくべきです。もしかしたら、先輩によって運用方法についてのアドバイスが異なることがあるかもしれません。そのような時は、「誰のため、何のためにやっているのか?」に立ち返る必要があります。法の運用には裁量の幅がありますが、それによって下す処分には、利害が必ず発生します。そしてその処分によって得る利益・不利益を被るのは、申請を出した市民です。

 法律は、所詮は人が運用するものです。意識高い系というのは、僕はあまり好きではありませんが、「誰のため」「何のため」は決して忘れてはいけません。これは議員秘書をやっていた時にもよく言われていたことです。


【2-6-2の法則】

 聞いたことがあるかもしれませんが、この世の中は、2-6-2の法則で成り立っていると言われています。

 2割が言われなくてもやる人。

 6割が言われたらやる人。

 残りの2割が言われてもやらない人です。

 上に行くには、この上位2割(言われなくてもやる人)に入らなければなりません。議員秘書をやっていた当時、代議士から耳にタコができるくらい聞かされました。ただの目立ちたがり屋は、全く使い物になりません。プラスαのことができるということが、将来の自分にとって非常に重要です。

 言われなくても、誰に対して「公平、公正、誠実」なのかは考えなくてはなりません。僕は今までの経験で、自分の出世、評価を考えている人があまりにも多いと感じました。法的義務がないのに、努力義務を半ば強制的に課してくるような人や斜視定規の法解釈・運用をする人たちです。

 言われたことをただこなして、疑問を持たずに自分の領域だけで判断することは、非常に危険です。行政職員は、薄くでもいいから、最低限の法律的思考が求められるでしょう。

 行政の処分による、利益・不利益の一切を被るのは、納税者であり、国民であり、市民です。

 僕が秘書をやっていた時、代議士からは、「常にアンテナを張っておけ。例えば、なんで電気が光ると思う?なんで信号は赤、黄、緑なのか?あらゆることに疑問を持て。全部が当たり前じゃない。理由がある。」を言われていました。


【2-6-2の8割の人】

 普通の人は、結局、自分の生活でいっぱいになってしまうんでしょうね。その人たちが世のため人のため、地域のために、お金にならないけどプライベートの時間を削ってまで何かをやるかって言われたら、それには無理があります。人それぞれその人の生活があり、それは仕方のないことです。自主性というのは、求めることは不可能で、強制すると必ず反発が起きてしまいます。だからこそ、業務の時間内で、パフォーマンスが最大化される方向で考えていかなくてはなりません。それは民間でも行政でも同じことです。求められる人材は、言われなくても資料作ったり、現地調査行ったりするような、「言われなくでもやる」人なのですが、そういう上位2割の人って、結局独立してしまうんですよね。だから、このパフォーマンス最大化の考え方はなおさら重要です。


【お金をかけなくても人は集められる】

 ハードを作る必要はなくて、莫大なお金をかけなくても人は集められると思っています。

 先ほどの事例で紹介したビザ、住民票を取る手続きは、サポートする人がいないとかなり辛い。私は先述した移住希望者の外国人にアパートの一室を貸して、住民票を取得までフォローしました。この手続きをサポートをしてあげるだけで、人は集まります。飲食店や町の看板でも、外国の人が生活しやすいように外国語も併記するよう条例、補助金を作ってサポートするだけでいいんです。

 あとはやる気次第です。信念と情熱がないと、結局お金の話に収れんしてしまいます。でも、お金が無くてもやる気と情熱さえあればできるんです。

 自治体は、補助金による政策誘導と、条例による規制、新たな税金(※6)まで作ることもできます。しかし、ビジョンがなく、目先のことしか考えていないと何もできません。

 例えば、コロナで全国的に他県に人が移動しないように呼びかけられましたよね。しかし、伊東市は4割以上が観光産業です(※7)。みんなの知り合いに観光産業に携わる人が必ずいるレベルなのに、いつまでも自粛を続けていたら、その人たちはご飯を食べられなくなってしまいます。なので、ある程度まで感染者が減ったら、コロナウイルスの予防や対応するための体制確立した上で、人を呼ぶことに舵を切っていくべきだと思います。現役世代は、商売ができなければ、生きていくことができませんから。


(※6)地方税法第五条:市町村税は、普通税及び目的税とする。

同条第7項:市町村は、第四項及び第五項に規定するもの並びに前項各号に掲げるものを除くほか、別に税目を起こして、目的税を課することができる。

(※7)2015年国勢調査結果 産業別就業者数 参照

https://www.city.ito.shizuoka.jp/material/files/group/6/273kokuchokekkagaiyo.pdf

官公庁による観光産業のイメージhttps://www.mlit.go.jp/common/000226408.pdf(旅行業と宿泊業を中心として、運輸業、飲食業、製造業等にまでまたがる幅の広い産業分野)を観光業として定義すると、その割合は半分を超える。宿泊、サービス、小売業で考えると、4割以上になる。


【利益を度外視したビジネス】

 僕は有り難いことに住む家もあるし、贅沢しようともあまり思いません。利益のことなんて、全く考えていないんですよ。自分自身経営者に向いてないと自覚しています。(笑)

ビジネスをする人の多くは、事業計画書作って、利益とか給料の計算をする人が普通なんですよね。結果がどうしても先にきてしまう。

 僕はそれよりも「過程」が大切だと思っています。どうすれば人口を増やせるか。いかにして空き家を再生させて、お客様を満足させるか。利益という結果を先に計算しなくても、信念に基づいてその過程を愚直なまでにやれば結果が出て、利益も勝手に出てくるはずです。

 最初は自転車操業でした。本当にお金が無くて、消費者金融からしかお金を借りることができませんでした。金利は約14%と本当に高く、それも限度いっぱいまで借りました。スタートアップの企業は担保がないので、金融機関はお金を貸してくれないんですよね。特に地方だと、不動産担保がないと貸してくれない。だから消費者金融で借りざるを得ませんでした。三期目でやっと不動産の売買で利益が出て、お金を返して、不動産も購入して担保ができ、銀行からお金を借りることができました。

 僕の会社は社会起業的な側面があります。空き家対策、人の呼び込み、移住体験などは全て、地域のためを思ってやっています。その分、割に合わないことも多々あります。

 しかし、空き家を再生させて、そこに価値を与えて、そこで泊まってくれるお客さんが喜ぶことによって、初めて結果が得られると思っています。先に利回りを計算するような人は、僕とは合いません。実際、僕のもとを離れていく物件の持ち主もいました。

 


【地域の人たちの支え】

 ビジネスをするとき、地域の人たちが見えないところで支えてくれています。僕の見えないところでお客さんの大きな荷物を運ぶのを手伝ってくださったり、道案内したり、車で送ったりしてくれている。自分では見えていなくても、地域でアンテナを張っていると、そのようなことが分かります。この地域があって初めてビジネスができる。したがって、そこに住む人たちにはできるだけ配慮しなくてはなりません。利回りとかお金のことばかり考えているとそれがないがしろになり、足元から崩れていきます。特にこのような地方では、地域の人の声にしっかり耳を傾けて、地域の人の協力に感謝しながらやっていかないと、絶対に長続きしません。

 結局どこまで行っても、地域のためを思う信念と情熱が必要です。


【今後やっていきたいこと】

 僕は新しい事業したいと思っているんですよ。貸別荘や民泊の事業とは離れて、日本語学校をやりたいんです。

 それともう一つ、首都圏に住んでいる若い人に、無料で伊豆の空き家を譲渡する仕組みを作りたいと思っています。「首都圏の若者」×「空き家提供」×「移住」。この取組を計画しています。

 これらをやりたいと思った理由は、僕が苦労したからです。会社立ち上げるとき、お金も不動産も何の資産もなかったから、銀行から借り入れができなかった経験がある。だから若い人には、何でもいいから資産を持ってもらって、移住してきてもらって、それを自分で改装してもいいし、それを担保にして借入をして新しい商売を始めてもいい。新しいことを始めるには、資金面での支援とともに行政との関わりも必要になって来るので、そこをサポートしていきたいと思っています。


【若者たちが抱く幻想】

 今回のコロナで、若者たちの幻想のようなものが解ければいいなと思っています。「都会に行けば生活が安定して、好きな時に飲みに行けて、遊べて…」というのは幻想です。どんなに頑張っても、年収は1000万~1500万円。それで何十年ものローンを組んで、何千万ものタワーマンション購入して。それで本当に大丈夫なの?と思います。

 大手デベロッパーなどが、タワーマンションに対する幻想を抱かせるような広告を作ったのが一つの原因ですが、その幻想にとらわれている若者たちがかわいそうに思います。何千万もの物件なんて、お金がある人たちが別荘として持っていればいい物。普通の若い人が買ってはダメでしょう。今回のコロナでその考え方が変わってくれればいいと思っていますが、そんな簡単には変わらないとも思っています。テレワークもなくなり、通勤ラッシュも元に戻るでしょう。でも、そこに一石を投じたいと思っています。


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【インタビューを終えて】

政治と法律を学ばれていたということもあり、知識の豊富さと論理的思考に刺激を受けました。行政職員である自分も常に疑問を持つ姿勢を持たなければならないと感じました。

 どれだけ勉強しても、経験を積んでも、自分が把握しきれていないことは必ず存在します。その時に前例を踏襲して思考停止状態で法律を運用するのか、疑問をもって自分で調べるのかで大きな差があるんだと思いました。自分が知っているかどうか、そして疑問を追求するかどうかで法律の運用が変わり、そしてその影響を受けるのは市民です。「なぜ電気は光るのか?なぜ信号の色は赤黄緑なのか?」そういう何気ない部分でも、常に疑問を持つ姿勢を養っていかなければならないんだと思いました。

 また、「利益を度外視したビジネス」という考え方は、なかなかできない考え方だなと感じました。しかし、足達さんがおっしゃっていたように、利益を度外視するからこそ長続きするんだと思います。利益を考えないからこそ、人に対する行動の質が金銭面でのつながりではなく、感情的なつながりになる。そしてそのつながりは非常に強固で、困った時には助け合えるような深い絆になる。だからまわりまわってそれが結果につながるのではないかと思いました。

 常に疑問を持つ姿勢、そして「誰のため」「何のため」を考える意識。利益を度外視した行動。これは自分も日々意識していかなければならないことです。

 足達聖也さん、ありがとうございました!!

 

 

ジモシルウォークVol.5(八幡宮来宮神社)

前回に引き続き神社シリーズ、今回は、八幡宮来宮神社です!

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公式HP:http://hatimanguukinomiya.net

場所:

〒413-0232 静岡県伊東市八幡野1
https://goo.gl/maps/v5e4977oh2rTqQn6A

 

この神社は奥行きがあり、上まで登ると周りが木々に囲まれた広い場所に出ます。

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準絶滅危惧の「イズカニコウモリ」という植物も植生しています。

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中の広場入ってすぐ左に行くと、小さめの社殿があります。

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この神社、実は御神輿が2基あり、祭りの際には両方とも担がれます。こちらの社殿では、その一方が奉納されています。

 

さて、広場まで戻り、さらに上へ階段を上っていきます。

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まだ上があります

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この階段を上ります!

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これが一番上にある社殿です。

ここに、もう一方の神輿が奉納されています。

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周りが大きな木々に囲まれてて、日常と離れた感じがありますね!

落ち着きます。

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祭りは毎年、9月の下旬に行われています。(7月2日現在、今年はコロナの関係で、まだどうなるかわかっていません。)

 

ここの神社は歴史も古く、御神輿も2基あり、社殿もかなり立派な造りになっているため、観光客も訪れます。

建築当時は伊豆各地の優秀な大工職が関わったそう。

 

秋祭りでは、2基の御神輿だけでなく、「万灯」というものを若い男性陣が回しながら交代で運びつなぎ、そのパワー、迫力に盛り上がります!

去年の記事:https://www.google.com/amp/s/www.at-s.com/amp/event/article/festival/122602.html

 

この神社の魅力を改めて見直すことができた回でした。

 

 

ジモシルウォークVol.4(三島神社@赤沢)

ジモシルウォークで初の投稿をします!

稲葉です!

 

先日、伊東市赤沢にある「三島神社」に行ってきました!

 

三島神社
〒413-0233 静岡県伊東市赤沢62
https://goo.gl/maps/fYhhEgWyHS9LhGde7

 

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写真は東京方面から

 

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国道の通り沿いに、ひっそりとある神社でした。

普段近くにあるけど、こういう、行ったことないような場所って、何があるかわからなくて、ちょっとワクワクします。

特に神社って、さりげないところに建っていることありますね!

コンビニよりも、実は神社の方が圧倒的に多いらしいです。

https://donabo.life/jinjanokazu/

このブログによると、2019年1月時点で、神社8.2万、コンビニ5.2万らしいです。

数字は覚えてないけど、だいぶ昔に僕もテレビでそんな内容を見た気がします。

 

あと、「由緒」のところ読んでみたけど、さっぱり意味がわかりませんでした。わかる人に教えて欲しいです。あと、伊東の歴史を学ぶことも必要なのかもしれません。

 

とりあえずこういう知らない世界行ってみるの楽しいので、伊東市内の神社、制覇したいですね!

ジモシルインタビューVol.2(利岡正基さん)

【ジモシルとは】

 新潟県上越市役所の上石剛士さんが始めた、地元を知る活動のことです。

 彼はジモシルウォーク(市内を歩き回る)、ジモシルリーディング(市に関する本を読む)、ジモシルミーティング(市に関するテーマを話し合い、何かを企画する)を企画しています。

 自分はそれを真似して、地域の人に話を聞きに行く、「ジモシルインタビュー」を開始しました!

 

【第2回インタビュー】

 第2回は、ペンション「アースルーフ」(http://xn--cck3b7dydxdc.jp/)のオーナーであり、「伊豆高原観光オフィス(IKO)」の事務局長として、中心的に活動されている、利岡正基さんにお話をお伺いしました。

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(家族写真:利岡正基さんは写真右上)

 

 利岡さんは、なんと北海道出身。そして、日本アイ・ビー・エム株式会社で働いた経験もあります。さらに、京都市船橋市市川市横浜市、東京都、日光市など、さまざまな場所での生活を経て、現在、伊東市で生活、活動されています。

 

伊豆高原観光オフィスとは?】

https://r.goope.jp/izuiko2019

 静岡県伊東市伊豆高原エリアの観光事業者(宿泊施設、美術館、博物館、観光施設、体験施設)が中心の地域団体です。

 事業者間の連携で情報の共有をしたり、情報の発信をしたりしています。

 地域活性化事業として、伊豆高原の3つのブランド「ペットツーリズム」、「自然」、「アート」の柱を中心に、地域インフラ整備、教育旅行事業、SDGs推進等観光を中心に地域の様々な事業に取り組んでいます。(ホームページから転用)

 

 ちなみに、協力事業者は121施設にものぼります!

 伊東市に移住されてから6年も経っていない中で、ペンションのオーナーだけではなく、IKOの代表として積極的に活動されている、その想いを聞きました!

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ペンションを始めるまで

 伊東市には、「昔から伊東市に住んでいる人」と「他の場所から移住してきた人」がいて、多様性があります。そしてペンションを営んでいる人の中でも、始めた理由が積極的な人と、消極的な人がいます。実は僕、後者の方なんです。企業で働いていた時、10年20年先のことを考えると、「未来は明るくないな」と思い、他の道を探してました。そして、ペンションの経営という道に行き着いたんです。

 

 

ペンションを始めた理由

 40歳で企業から転職しました。転職をしようと思った理由は2つです。

 1つは、仕事が忙しく、家族との時間が取れなかったこと。子供がまだ小さいのにもかかわらず、ほとんど相手ができませんでした。

 2つ目は、上司を見るとともに、当時の仕事をこなしていく中で、「明るくないな」と思ったからです。10年先の先輩は、どうしても自分の10年後の未来と照らし合わせて見てしまう。当時の上司は、たくさんのプロジェクトのトラブル対応しかやっていないように見え、「これができても楽しくないな」って思いました。

 また、僕の仕事も、お客様のためではなく、社内のための仕事になっていました。システム構築のプロジェクトを手掛けていたのですが、発生したトラブルに対し、社内説明や承認を得るための資料の用意、プレゼンの準備をせざるを得ない状況で、「自分は何をやってるんだ?」と、当時は感じていました。

 その2つの理由から、「仕事を辞めて、全く違うことをした方がいいな」と考えました。

そこで、ゆっくり家族との時間をとりながら生活するなら、地方暮らしがいいと思ったのですが、ペンション自体は、妻が「こんな仕事あるよ」と言って紹介してくれたことがきっかけなんです。

 僕は何か特別なスキルがありませんでしたが、ペンションは特に資格がいらない。すぐにできる。さらに、家族との時間が増やしたかったので、自宅で仕事もできてしまうペンションは最適でした。

それでペンション経営を目指し、当時の仕事を辞める決意をしました。

 

 

仕事を辞めてから

 仕事を辞めてからはまず、日光のペンションに住み込みで働かせてもらいました。住み込みは、若い人が1人でするのが普通ですが、ここは特殊で、家族で住み込むことができるペンションでした。

住み込みで働き始めた2013年末の当時は既に、「ペンションで独立する」ということが明確に頭にありました。

 2014年、1月の閑散期に入ってから、働いていたペンションの財務諸表で、どれくらい売り上げているのか?どれくらい費用がかかるのか?参考にして、事業計画を作り始めました。

 そして4月に物件を見に行き、4月17日には仮契約をしました。

 その後、6月に銀行から融資が決定し、7月に今のペンションを正式に契約できました。それから、ペンション本社の「辞めるなら3ヶ月以上前に言う」というルールに従い、10月に辞めると本社に言いました。

 そして、2014年の年末に現在の『アースルーフ』をオープンしました。

 日光で働いたのは10か月でしたが、そこで本当に多くのことが学べました。

 「ペンションをやる中で何が必要なのか」「まずは何をすべきか」を知ることができたので、この経験があるかないかで本当に大きな差があったと思います。

 

 

大事な人との出会い

 振り返ると、人生のポイントとなる時期に大事な人に出会えたなと感じています。

 一人目は、日光で僕が働いたペンションの、前任の人。彼はペンションで既に3年間働いていたのですが、ペンション経営するという夢を諦めてしまったんです。彼とは10日間くらいしかかぶらなかったけど、彼に言われたことは、今でもずっと大切にしています。その中でも特に心に残っている言葉は、「すぐに独立するための準備を始めなさい」という言葉。僕は、とりあえず1年間(四季)を経験して、だいたいのことを学んでから独立の準備をしようと思っていました。

 でも、彼がペンション経営を諦めた理由は、3年働いた後で独立の準備を始めたら、希望していた条件の物件を得ることができなかったからなんです。彼からしたら、早く準備しなかったことに対して大きな後悔があり、そのような言葉を僕に投げかけてくれたのです。それがきっかけで、早く準備を始めることができました。彼の言葉が無かったら、今ここにはいなかったかもしれません。

 そして、伊東でも大きな出会いがありました。このペンションを購入した、AMSTEC不動産(伊東市八幡野)です。この不動産屋さんで、買いたい物件(今のペンション)が1件目にして見つかったのですが、当然融資を受けなければ買うことはできません。そこで、沼津の金融機関に融資を申し込んだのですが、それは通りませんでした。理由は経験と資金不足。どちらもその金融機関の基準を満たしませんでした。

 その時、この不動産屋さんが動いてくださいました。地元の面識がある金融機関に、僕が作った事業計画書を持って行き、「この人は大丈夫だから」と銀行に押してくれたんです。それでその銀行と電話で話すことができ、融資も受けることができました。

 あの時この不動産屋さんが動いてくれなかったら、融資の時点で頓挫していたかもしれません。この不動産屋さんのオーナーが土屋さんという方なのですが、その人の名前から、『アース(土)ルーフ(屋)』というペンションの名前にしたんです。彼自身は遠慮していたのですが、それよりいい名前が見つかりませんでした。それに、この場所の景色や場所を考えると、このペンションのイメージともあっています。

 土屋さんは、僕が購入すると決まった後も本当に良くしてくださいました。前の所有者が退去してから僕が住み始めるまで7か月くらい空いたんですが、それだけ空くと普通はカビがすぐに生えてしまう。そこで、僕がいない間に定期的にここの換気をしていてくれたんです。それだけでなく、荷物を運ぶときに軽トラを貸してくれたり、作業着を着て手伝いに来てくれたりもしました。土屋さんには今でも本当に頭が上がらないです。

 この様な出会いのおかげで、今、ペンションを経営できています。

 

 

ー「ペンションをすぐに始めると決断したとき、怖さはありませんでしたか?」

 なんとなくの気持ちでペンションを始める人は、逃げ道があるから怖さを感じてしまうのかもしれない。僕の場合は、仕事もやめて家族も抱えていた。そういう点で、「やるしかない」っていう局面だったから、怖さは全くありませんでした。

 始めたばかりの頃は、お互い慣れない生活に妻との喧嘩も絶えず、本当に大変でした。でも、あの時苦労した経験があったからこそ、今のコロナの状況や、多少辛いことがあっても耐えられるようにもなりました。

 

 

ー「伊東を選んだ理由は何ですか?」

 ペンションはどこでやるか?で、まずは「海」か「山」で分かれるんですが、僕と妻2人とも「海」で一致しました。

 次に、首都圏での居住経験が長かったため、首都圏から近い海を考えました。そうすると、「伊豆」と「房総」が思い浮かびますよね?そしてその二つを比べたときに、「どう考えても伊豆でしょ!」って思い、伊豆を選びました。僕の中で、伊豆に対するブランドイメージが強かったんでしょうね。

 伊豆高原に関していえば、宿がめちゃくちゃ多い。200件くらいあって、房総の館山と比べても、倍くらいはあった。それを考えると、「200位中100位くらいに入れば生活はできるんじゃない?」って考えました。今考えると、家族もいて借金も抱えている状況だったので、「100位に入ればいい」というのは、浅はかだったとは思いますけどね。笑

 でも、宿泊施設が少ないところで成功しようとするなら、まちづくりの1から作っていかなければならない。それは厳しいので、そういう意味では環境が整っている伊豆高原を選んで間違いはありませんでした。

 

 

実際伊豆高原に移り住んでみて

 移り住んで良かったと思っています。ここは本当にいい場所です。自然が豊かで過ごしやすいし、都会だったら今のような幸せな気持ちになれていません。

 それに、自分の立ち位置が埋もれないでいられる。江戸川区に住んだことがあるのですが、そこでは少し動くくらいでは声は全く届かず、自分の存在感は出ません。区長の名前すら知らない人も多い。でも、このまちならある程度動いたら知り合いも増えるし、自分の声が届きます。

 一方で、このまちは「CIVIC PRIDE(シビックプライド)都市に対する誇りや愛着」を持つに値する場所なのに、みんなの中でその意識が弱いような気がします。この「CIVIC PRIDE」という言葉を僕はよく使うのですが、住んでいる人が自分のまちを好きになり、誇りを持つことでまちは強くなると思っています。僕は「住みやすい街ランキング」の上位に常に入る函館や札幌、京都に住んだことがありますが、その時の「CIVIC PRIDE」よりも、いまここで住んでいる「CIVIC PRIDE」の方が大きい。それだけ魅力があるってことなんです。

 だからこそ、みんなに同じ気持ちを持ってもらえるよう、活動しています。

 

 

ー「他のまちと違う点はどこですか?」

 一番は「人」の良さかな。例えば、知らない人同士でもすれ違うと挨拶をする。そんなこと、都会ではあり得ないです。

 あとは、「自然」ですね。

 意識してないかもしれないけど、実はみんな自然に守られているのではないかと思います。コロナの中で学校に行けなくても、外に出るだけで自然に触れることができる。気持ちよく息を吸うことができる。それでストレスから守られているのかもしれません。池地区の田んぼを見るだけでも、「頑張ろう」と思えたり、幸せな気持ちになることができます。都会の人は、休みの日にお金を払ってでも地方に出かけたりしますよね?そんな場所に住むことができている僕たちは、本当に幸せです。

 

 

ー「自然が豊かである一方で、都会のような利便性がないことに不自由は感じませんか?」

 確かに、「これがあればいいな」って思うことはあります。大きなショッピングモールとか、チェーン店の飲食店とか、都会ほど多くはありませんよね。でも、全く手に入らないわけじゃない。沼津に行けばららぽーとはあるし、お店に商品がなくてもネットで買うことができる。どんな自治体でも、100%完璧なまちなんて存在しません。

 それよりも、圧倒的にプラスの要素が大きいので、気にはなりません。例えば、友人がこっちに来ると僕は必ず大室山に連れて行くのですが、その時に、「うわぁーっ!」て感動した声を聴くと「CIVIC PRIDE」の感情がくすぐられ、嬉しい気持ちになります。

 

ー「ペンションを「消極的」に始めたのにも関わらず、「伊豆高原観光オフィス(IKO)」の代表を務めるなど、現在「積極的」な活動を行われている理由は何ですか?」

 妻に言われたのですが、根が仕事人間なのかもしれませんね。でも、結局なんでそんなに活動しているんでしょうね...。忙しくするのが好きなのかな...。

暇を作りたくないのかもしれませんね。ゆっくり過ごすことも大切なのかもしれませんが、確かにその時間は少ないです。

 でも一つ、以前と大きく違うのは「楽しめているかどうか」。今は、楽しめています。

 具体的に考えてみると、最初のきっかけは、伊豆高原ペンション協同組合に入ったことですかね。伊豆高原にはペンションの組合が2つあるのですが、修学旅行の受け入れをやっているということで、収益にもつながると思い、片方の組合に入らせてもらいました。それが2015年5月で、「アースルーフ」をオープンしてから半年弱経った頃です。

 そこからは、修学旅行の受け入れの役割分担や、組合の理事など、「若手だから」と乗せられたこともあり、色々と関わるようになりました。その中で大きかったものが、「農泊推進事業」。観光客を農山漁村に呼び込むために、農水省が指定した地域に交付金を交付する事業で、農水省は、その交付金指定地域を500に増やす計画を立てていました。その時様々な地域に声をかけていた様なのですが、教育旅行をやっていたこともあり、伊東市にも声がかかったんです。その2回目の事業説明会に僕も顔を出したのですが、その場の流れで交付金の申請書を僕が書くことになって、事務局長までやることになりました。

 この事業を通して大きかったことは、伊豆高原にある2つのペンションの組合が協力し合えたことです。以前は伊東市が補助するにもどちらかを優先するわけにはいかず、2つの組合でバランスを取らざるを得ない状況でした。また、お互いの組合が協力する場面もなく、発信もバラバラでした。しかし、この農泊の事業で初めて両団体が協力し合い、お互いに代表者や理事を出合って進めることができたんです。

 これをきっかけに、バラバラにやっていた地方活性化の事業を協力してできるようになり、「伊豆高原観光協会を作らなければダメだ」という話にもなりました。

 それで、伊豆高原で横の関係を作るため、伊豆高原観光オフィス(IKO)が立ち上がることが決まりました。

 その後、打ち合わせを重ねていく中で、計画書は僕が作成していきました。また、市とも話し合った経験があり、いろいろな活動の中で知っていることも多かったので、「利岡がやった方が早いんじゃない?」という話になり、僕が代表をすることになりました。2019年の6月に承認され、7月にスタートしたので、そろそろ1年経つ頃です。

 当時、ペンションの人は知っている人が多かったのですが、それ以外の観光施設の人は知らない人が多く、「誰だこの人?」って思われたかもしれません。それに、市から助成金をもらいながらやっているし、「ここまでやればOK」という基準がない。その分最大限の努力をしなければならず、今も責任感を感じ、必死にやっています。

 

 

伊豆高原観光オフィス(IKO)の前進した瞬間

 基本、IKOではメールでコミュニケーションをとるのですが、「この人誰?」と思われている状態で送っても、「知らない人からのメール」としか受け取られません。そこで、まずは全ての施設を回り、施設の方全員と一対一の関係を作るようにしました。そうすると、「知らない人」からの連絡ではなく、「利岡」として連絡を受け取ってくれて、相手からも連絡をくれたり、頼ってくれるようになりました。

 大きく前進したのは、去年の台風の時です。会の一人一人から、断水や、利用できる施設などの情報提供をしてもらい、それを一日に何回も全員に発信していきました。そうすると後日、「役立った」という声をもらって、「誰だこの人?」という状態から大きく前進しました。それと並行して伊豆高原の事業計画も進めてきているのですが、そこでの考え方も次第に一致しつつある感覚が持てています。

 現在のコロナの状況下でもそうで、施設の情報や伊豆高原の取組の発信、給付金申請のお手伝いなどをしています。人によっては、申請一つとっても難しいことで、それを手伝うだけでもその人を助けることができる。「IKOができてよかった」という言葉をもらった時は本当に嬉しく、自分にとってもありがたかったです。それがこのような活動をする意義だと思っているし、そういう経験があると、やり続けていくしかないと思いますね。戦略的に地域活性化をやる一方で、全ての人が頼れる場所にしていきたいです。

 一生懸命やっている人は、みんな「縁」を大切にしています。「いい人と出会えた!」って思ったら、その後もつながっている。僕もそういう「縁」を大切するようにしていますし、何かあった時にその「縁」の中で求められる存在になりたいと思っています。

 そして、「やらない」ことはあっても、「やれない」ことって、ほとんど無い。頑張ればほとんどのことはできる。それはうちのペンションでも、IKOの活動でもポリシーにしています。「とにかくやる」という気持ちです。「やれない」と言ったら終わりだと思っています。

 

 

IKOの将来

 現在は助成金をもらいながらIKOの活動をしていますが、それでは市のお金でやっているだけになってします。最終的には助成金なしでもお金が回るような仕組みを作りたいと考えています。最近では、県議を通じ、県内の教育委員会を訪問することができ、教育旅行の紹介をしたところ、沼津の中学校に仮予約していただきました。これはコロナの中でも一つの成果だと思っています。

 事業の中で、「教育旅行」は大きな柱となります。今の2団体を一本化した窓口を作ることを今年のテーマとして、現在調整しています。これができれば、利用者にとっても利便性があり、経費の無駄な部分が削減できます。

 また、組合の中でも、本当に汗をかいて頑張ってくれている人がいる。これはその人の奉仕精神と責任感によるものですが、それで完結するのではなく、正当に評価されるように手当を出す仕組みを作りたいです。そうすることでお願いする側も、される側も健全化されるはずです。現在は頑張っている人が評価されるどころか、それが当たり前になってしまっているのではないかと思います。そこを変えて、頑張ってくれている人が評価される仕組みを作りたいと考えています。

 

 

コロナ下での現在の活動

 コロナの状況下では、僕は逆に忙しくなりました。

最近は教育旅行の問い合わせ、補助金事業の手続きが忙しいです。

 それに加え、コロナの後どうやって活性化するかを、夜定期的にミーティングしています。また、IKOのメンバーとも週一で十数人といろんなテーマを設けてディスカッションをしています。あとは、隙があれば資料を作っていますね。それは、大切にしている「準備」の一環なのですが、何かを理解してもらうとか、決めるときなどには必ず資料が必要です。準備なしに話し合っても、ただ口頭だけで会議を進める「空中戦」になってしまい、結局結論が出ません。そうすると、次の回にまた同じ内容で話し合わなければなりません。「人を説得しよう」「決めよう」と思ったら、必ず資料を作ります。

 コロナでペンション自体の仕事は減っているはずなので、このようなペンション以外の仕事が多いんでしょうね。

 

 

「準備」の大切さ

 例えば、初めての人に会うとき、何も準備しないで行く人がいるけど、それは逆の意味で「すごいな」って思ってしまいます。会社でお客と話をするとしたら、その相手方のホームページすら見ていない状態ではとても話せない。それをしないことは危険です。「相手を知る」ということは、非常に重要だと思います。ペンションの経営もそうで、表に現れるのはお客さんをお迎えするところからですが、実際には、準備の段階で8,9割は決まってしまいます。組合の会議でも、資料は絶対に準備して「今日はこれを決める」と、目的をもって臨んでいます。準備は自信が持てるまでしていたので、イレギュラーなことがあっても、慌てることなく、冷静に自信もって対処できるようになりました。

 このような準備の積み重ねをしてきた経験があるからこそ、5年前に移住してから大きく成長できました。「移住したばかりの自分じゃできないな」って思うことが、今はできます。僕は、実は人見知りなんですよ。全く知らない相手には積極的にコミュニケーションをとることができませんでした。それに、大人数の前ではっきりと意見を言えることもできなかった。それも、準備して経験して、少しずつ変わっていって、初対面の人とでも、大人数の前でも、話すことができるようになりました。

 これは結局、いろいろなことを経験して、小さな自信を少しずつつけていくしか無いように感じます。僕が組合に参加してから一番最初にやったことは、組合のクリスマス会の企画でした。伊豆高原ペンション協同組合は、西部班、中部班、東部班、で10ペンション程度ずつ分かれているのですが、僕が企画をすることになりました。その時にしっかり準備して企画したことで、次第に信頼してもらえるようになり、そこから、理事や農泊など、いろいろなことを任せてもらえるようになりました。

 

 

ー「利岡さんが準備するにあたって気を付けている点は何ですか?」

 「こういうこと言われるだろうな」「こういう反応する人いるだろうな」と想像し、それに対してどうやって答えるのかは準備します。なので、当日、何か質問されることがあっても明確に答えることができたり、答えることができなくても「これは一回持ち帰れば答えは出るな」と判断することができるようになります。

 でも準備することを含め、その人の力がつくかどうかは、周りの環境にもよると思います。今、僕の仕事のやり方の土台となっているのは、社会人時代です。もし違う会社で働いていたら、今の自分とは違っていたと思います。高校、大学のときどんなに優秀な人でも、その後どう過ごすかで大きく変わります。いくら優秀でも、仕事が「楽だな」ってその人が思うとしたら、その人の能力をもっと引き上げられたはずの部分が、引き上がらない。やっぱり苦労しないと、レベルは絶対に上がりません。そういう意味で、僕は社会人の時代に追い詰められて、鍛えられたことが多くて、その経験があったからこそ仕事に対して取り組み方やその結果が変わったと思います。いくら本を読んだとしても、このような実体験がないと身につかないです。例えば、エクセルを使おうと思って本を読んでも、使い方なんて身につかない。それを使って何かを生み出す必要に迫られないと、力はつかないです。

 「ちょっと背伸びする人生」を重ねることが大切だと、僕は思っています。当時の僕は、月曜日を迎えることが、本当に嫌で、追い込められ方がすごかったので、「ジャンプ」ではなく、「背伸び」がベストですね。どちらにせよ、自分のスキル以下のことをやっていたら、絶対に成長はできません。そういう意味で考えると、僕の今の環境は、自分自身を追い込んでくれて、成長できる環境にあると思います。

 

 

ー「公務員って、どう「背伸び」していけばいいと思いますか?」

 「前例だから」として当たり前にとらえて思考停止していては、最終的に大きな差になってしまいます。例えば、作業をする中でも、「いかに質を追求するのか」「いかに効率的にやるのか」を考えることが大切です。仕事の中の非効率な部分は、実は若い人の方が気が付きやすいと思います。その気付きを失わないようにしないといけない。「自分だったらこう」と思ったことを追及していかなければなりません。

 また、その中でも、組織内で波風を起こさないことも大切です。「できます」アピールして、自慢気にしている人は、たとえ本当にできていたとしても嫌われてしまう。そうすると結局自分の成長につながらなくなってしまいます。どんなに異色の存在でも、肩書きが無ければできることは限られてしまう。なので、「嫌味っぽく見せずに、『できる』」ことが重要です。そして、出世した時に、しっかりと変えていけばいい。そのためには、たとえ今すぐ変えることができない部分でも、「こう言われたから」となるのではなく、「もっとこうした方がいいのかも」と常に考える姿勢を持たなければなりません。

 また、自分の中で持て余している感覚があるのであれば、何かしらのことを自分に課して、やれることはどんどんやっていかなければなりません。このようなインタビューをする機会を作ることもいいと思いますよ。

 

 

ー「最後に、利岡さんにとっての『地域活性化』とは何ですか?」

 それは考えておかなければならないテーマですね。

 僕が思うのは、「CIVIC PRIDE」にもつながりますが、「そのまちに住んでいる人がそのまちで楽しんでいて、そのまちが好き」であることだと思います。今のまちは、知らない人同士でも、すれ違ったら普通に挨拶する。これがさらに、このまちが好きで、来てくれた人に感謝できる状態で、観光業以外の人でも、観光客の人に値して「こんにちは!」って挨拶したら、来てくれた人は一瞬でこのまちが好きになると思います。今は、僕でもそんなことできませんが、これを全員が当然にできるようになったら、これは本当に地域活性化だと思います。

 そのためには、「このまちが好き」で、「このまちをみんなに知らせたい」と思っていて、「このまちに来てくれた人に感謝の気持ちが湧く」状態を広げることが必要で、それが地域活性化の根本にあると思っています。

 「観光客を増やす」ことは確かに重要ですが、自分のまちが本当に好きじゃないと、心の底から呼べないですよね。僕が友人に「このまちに来て!」って言えるのは、このまちに自信があるからです。ここが本当にいい場所だから、この良さを伝えられると思っているから、心の底から呼ぶことができます。それをみんなが思えるように、この想いを広げていきたいです。

 そのためには、IKOの活動も、将来的には観光事業者のつながりだけではなく、「観光事業者」と「住んでいる人」の隔たりを無くしていかなければなりません。

 たとえ観光事業者が観光客を呼んだとしても、地域住民が「うるさいだけだ」「生活が脅かされる」と思っていたら、両者の間で距離ができてしまい、本当の意味での地域活性化にはなりません。

 「ブランド研究会」という、10人程度の観光プロモーション事業があるのですが、僕も委員として「伊東市ブランディング」をテーマに活動しています。そこで「ブランドブック」というものを作っているのですが、そこでは観光業の人だけでなく、市民が「自分のまちはこうありたい」「自分のまちはこうなんだ」ということを、共有できるものとして作りたいと考えています。そのためには、「こういうことをやっていますよ」と、製作の段階から周知していかなくてはなりません。突然、僕たちが作ったものを住民に見せたときに、「誰が考えたの?」「何これ?」という不信感を持たれてしまうかもしれないからです。だから、誰かに取材してもらったり、自分たちから積極的に発信していくことは重視しています。

 「自分のまちはこうだ」「ここが好きだ」って考えている人は少なく、まちの良さに気付いていないと思っています。そこの良さに気付いてもらうためには、この発信は不可欠で、それをし続けることで地域活性化に繋がります。

 ブランド研究会の中では、「旅行に行ったときに感動したことは何か?」というテーマで話したことがあるのですが、最も多く出てきたのは「人」でした。あるまちに行ったときに、そのまちの人が親切にしてくれた経験は、なぜか記憶に残ってしまうんですね。だから、伊東市もそういう「人」の魅力がもっとあふれるまちであってほしいし、そうなったとき、本当に魅力あるまちになると思います。

 それは、お金ではどうしようもできない部分。プロモーションではなく、どうみんなの気持ちを高めることができるか。そこの点が本当に重要ですね。

 伊東市全体でもそういったことを意識して活動していかなければならないと思っています。

 

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【おわりに(このまちを好きになること)】

 今回も、時間があっという間に過ぎてしまいました。

 以前のインタビューと共通点を感じた部分は、追い込まれた環境だからこそ、必死になって頑張れるということです。前回のラーメン屋さんも、利岡さんも、新しい道に進むしかないという状況だからこそ、怖さを感じることなく、進むことができたと言っていました。

 確かに、多様な選択肢があるというのは、余計なことを考える余地ができてしまい、挑戦することをためらってしまいます。それでも生きていくことはできるけど、どこかの時点で、「このままでいいのか?」と感じてしまうことがある気がします。極端な環境は、やはり人を成長させるんだなと思いました。

 そして、現在の「アースルーフ」(http://xn--cck3b7dydxdc.jp/)。余談ですが、ホームページで館内施設を見てみると、ダイニングにはキッズスペースもあるんですね!利岡さんの「家族との時間を大切にしたい」という思いが、この「アースルーフ」から感じられて、とても暖かい気持ちになります。ちなみに現在(7/22まで)、伊東市内在住者限定で、お子様の宿泊無料キャンペーンもやっています!平日の朝は早い時間に朝食の用意もできるということで、ここでも家族を大切にする思いを感じます。

 また、利岡さんの、組織の上に立つ人間としての姿勢がめちゃくちゃかっこよかったです。「忙しくするのが好きなのかも」と聞いたとき、生粋の仕事人間だと感じてしまいました。121の施設に足を運ぶのは、相当な労力だったはずです。それでも、IKOのメンバー1人ひとりと一対一の関係を作ることを意識して、行動されていました。給付金申請の際も、困っている人がいたら手伝ったという話が印象的でした。人の上に立つ立場でも、一人の人を見失わず、寄り添うことができることはすごいことだと思います。

 また、それだけでなく、「組織の中で波風立てないことも大切」とおっしゃっていたことから、全体を見通すことも重視されていることがわかりました。たしかに、自分のやりたいことだけやっていて、本業自体を疎かにしていたら、意味がありません。どんな環境であろうと、その環境を選んだのは自分自身の責任で、どうしても違うと思うなら辞めるという選択肢をとるべきだと思います。自分が選んだ環境の中で、いかに成果を出すか。それを考えることができずに、その組織に対して文句を言ったり、逆らったりするのは履き違えていて、ただの思考停止です。そして、そのような人は、結局どこに行っても輝くことなんてできないだろうなと思いました。利岡さんは、「自分の仕事の土台ができたのは、企業で働いていた時で、その時は本当に追い込まれていた」とおっしゃっていました。きっと、トラブル対応を徹底しなければならないという制限された状況の中でも、ご自身の中で必死に考え、会社のために努力してきたからこそ、そのような言葉が出てくるんだと思います。

 

 そして、「地域活性化」の中でも話があった、「CIVIC PRIDE」という言葉は、本当に良い言葉だと思いました。自分自身、「地域活性化とは何か?」を考えた時に、明確な答えは今まで見つかっていませんでした。よく人口とか観光客数が指標としてあげられますが、その数値が改善すれば地域住民が幸せになるかと言ったら、それには違和感を感じていました。そして、利岡さんの「CIVIC PRIDE」の話を聞いて、まさにその通りだと思いました。

 自分自身がこのまちを好きであり、誇りを持っているからこそ、心から観光客を呼び、出迎えることができる。その意識は、たしかに自分を含めて弱いと思います。自分のまちに誇りを持てているかと考えると、自信を持ってそうだとは言えません。電車を使わないと飲みに行けないし、大型店舗もない。そんな利便性の部分だけに目がいき、本当にいい部分に気がついていない状態が、今の自分です。このようなインタビューをする機会を含め、もっと自分が住んでいる地域のことを知り、このまちを好きになることが大切だと感じました。

 過去から現在に至るまでとともに、このまちに対する想いと仕事観までお伺いすることができ、自分にとって本当に楽しかったし、勉強になりました。

利岡さん、ありがとうございました!!